ここからいなくなる前に
まだ隣にいるうちに何でもいいから
書いておこう
この2年ほどは認知症が進んで子どもみたいだった父。
年齢的には親と言うよりはおじいちゃん。
いろいろ忘れて出来ないことが増えた代わりに、守られるためか、人間の本能的なやつで、狙っても出来ないかわいらしさを手に入れてた。
あざとくない子どもみたいな口調や表情、ときどきとんちの効いたセンスのある返し、笑ってしまう行動。
子どもか弟、孫、パンダ辺りの自由さを感じさせるのに、ゴリラ並の異常に強い握力、瞬発力で、なにか抵抗する時、遊び心で
人の手を握りつぶしそうな圧をかけて
じゃれてくる父が大好きだった。
愛くるしさと面白さと危険のミックス。
マンガみたいにポコポコなぐる(ゴリラ並の力で。でも相手の力に比例する力加減)
かわいい口調で、
「あ ほ ら し い」
「ぱぁ〜」
「しーらーん」
「なかしたろか」
「やったるぞぉー」
「おのれ」
暴言のかずかず。
90歳前後 成人男性の(認知症)全力おねだり、
「なんかちょーだい」
「ほーしーいー!」
「くれー」
私は歳をとってからできた子どもだったから
子どもと孫を併せ持った存在で、しかも女だから、箱入感のある過干渉ぎみの愛情=圧
をずっと受けて育った。
二十歳を過ぎ働き出しても、過保護がしんどくて、一人暮らしすると言って、構えない物理的な距離を取るため東京に引っ越した。
兄弟がいるとはいえ、高齢な親はいずれ
面倒をみなければいけないとわかっていたから、数年と区切って自由にさせてもらった。
母は転居時に一度付いて来たけど、
過保護だった父は仕事で忙しいこともあり一度も来ることはなかった。
FAXでのやりとり、たまに届く荷物、は全部母。
でも、陰で、一人暮らしして、すぐだけじゃなく、働いて生活費を稼げだしても、結局地元に戻るまでの間、家賃の足しにと、一定の仕送りを出してくれてたのは父だった。
定年近くだったのに。いや、途中で一旦定年になったのに続けて働いてたんだったかなー?
年に一度か二度里帰りすると、駅まで母を乗せて父が車で迎えに来てくれた。
そういえば、中学時代の塾通いで、隣駅まで毎週夜迎えに来てくれたりもした。
しごとは早朝から夕方まで、夏は過酷な暑さのお菓子工場で工場長として、雑用や休日出勤、機械の簡単な修理まで自分で器用で真面目な父がやっていた。
て、高齢者になって、認知症になるまでは、一定の距離は開けときたい存在で、そんなに好きとは言えない父親だったと思ったけど、、認知症の前の父の記憶があまり思い出せなかったけど、書いてたら少しずつ思い出して来た。
ここ数年の認知症のぼけぼけの、かわいい、がんばり屋の父が大切で、しんどいけど守るべき存在で本当に大好きだったけど、父であって父でない存在。
さっき思い出した、強面の頑固で見栄っ張りで、まじめで頑張りやなあの姿。あれは父親、お父さんだったな。
しんどい存在だったけど、あの父さんもちゃんと好きだった。
大好きとは言えないけど。大事なお父さん。
とか、書いてたら、兄が父のことを見に来た。
離れがたいらしい。
父さん、愛されてたな。
とりあえず、今はここまで。
次書くときは、会えないんだな。
もういない今 追加
かなしい気持ちと
麻痺した現実味のない感覚の中
やらなきゃいけない工程に追われてる。
何か書いてしまってないか確認だけしようと
見たら、
認知症の2年みたいに書いてたけど、
もっと期間は長い。
10年くらいかな。徐々に深度を上げてくる感じでいろんな出来事があった。徘徊が起こった時期とかが1番しんどかった。
母も同時進行で認知症ではないけど介護生活に。
約2年前くらいに父が倒れて一月半ほど入院して、
なんとか退院できてから自宅で過ごした約2年。
父の体力低下と、より認知症度がぐぐっと増して帰ってきたけど、
かわいらしさとおもしろさがアップした。
訪問診療、週二のデイサービス、兄と交代で
自宅夜見守り担当したりと、
新型コロナが社会に広がる中、濃密な介護生活だったのが約2年。
めちゃくちゃ大変だったけど、生きて家に帰れて、
家で一緒に生活できてよかった。母のことがあるから、まだまだこういう生活は続くけれど、ここでしばらく父さんとはお別れ。
母と父のお世話で心がぐらぐらの中、
ずっと光になっていた健ちゃんがいなくなった時は本当につらかった。
今もまだ足元がくずれたまま。
全部の人間の中でいちばん大切で大好きだった健ちゃんと、
私のいのちと変わってあげたかった父がいなくなってしまった。